この季節、市内で車を走らせていると、いたるところで桜を見かける。

『桜の木ってこんなにも多かったのか』 ちょっとした驚きとともに、ふだんは目にも留まることのない木が、このときばかりは街の主人公となって、街ゆく人々の視線を集めていく。

「花といえば桜」
 日本の国花でもあり、桜は花の代名詞 のようなものだが、絢爛たる満開の桜もこの時期の十日ほどを除けば、後はどうしよう もない木のように思える。    

休日の航空公園
サクラの花道を買い物袋をくわえ主人の後について行くけなげな犬。僕の傍らを、ちょっと得意そうに過ぎていった。
枝振りに情緒があるわけでなし、ただごつごつと雑木のように立っていて、それでいて目立つような場所にある。
 どかんと大きな顔をして立っている。
 そして何より、桜の木にはよく毛虫がつく。
 

中学生の頃だったか、どかんとした桜の木の下でたまたま昼寝をしてしまった時のこと、なにやら体中を刷毛でなでられる妙な感触で目ざめた。
見ると、亀の子タワシの子分みたいのがいくつも、もぞもぞと体の上で蠢いてた。

 風で梢が揺れた拍子に、葉についていた毛虫が、パラシュート降下するように下りてきていたのだった。
 したたかに刺され、その後しばらくは夢の中まで、毛虫が登場してきた。

一気に咲いて、人の目を惹き、短い期間でさっと散ってしまう、惜しまれつつ散ってしまう。
その簡潔さ、潔さ、それが桜の愛されるゆえんのようにも思える。
   そんなわけで桜の花にまつわるお話を。  
 

花はハナでも、まずは鼻のお話から                         
東京に出てきてしばらく経った頃、駅のトイレで手を洗いながら、ふと鏡に映った自分を見て、ハッとしたことがあった。       

 顔に異変が起きていた。   
鼻の穴より、何やらグロテスクな黒いものが、もさもさと気味悪くはみ出している。

小手指公園
昼食後、ちょっと一休み、座席シートを倒すと、傾いた車窓より、見事な枝振りのサクラと向かい合った
それまで鼻毛というもの、マツゲや眉毛と同じ類で、
一定の長さ以上は成長しないものと考えていた。
 それが暗い鼻の洞穴からはみ出し、陽の当たる世界に、
のこのこ顔を出してこようとは、男おいどん「サルマタケ」が光合成を始め出したようなもので、なんだか薄気味悪い気がした。  
 東京という街には、鼻毛の生態を狂わせる何かがあるのだろうか・
                
そう言えば高校生の頃見たテレビドラマにこんなシーンがあった。
嫁に行き遅れた一人住まいの姉の元へ、大学に行き遅れた弟が予備校に通うため上京する。         
 そんな二人の生活をコミカルに描いたドラマだったが・・・

 弟が机に向かっているシーンが映し出されている。       
 机の上には参考書が置かれ 何やらそれに真剣に取り組んでいる様子。
 本棚に手鏡が立てかけられており、弟は参考書から目を離すと、顔を鏡の方に持っていきながら、鼻孔を膨らまし、心持ち顎をしゃくるように鼻の下をのばした。   
 次に指を鍵型にして、それを鼻孔にはめ込み、鏡で位置取りを確かめた後、一気に引いた。

 引いた指と指の間に黒い糸のようなもの残っている。
 それを慎重な手つきで参考書の上に並べた。並べるというより植え付けた。         
 
 すでに何本もの鼻毛が屹立した格好で、苗床となった参考書の上に並んでいる。そして画家が自分の作品の出来映えを眺める、といった風に見た後、再び鏡に向かって・・・

 ふすまの陰で、腕を組みこっそり伺っている姉。たまらず弟の背後に忍び寄り、握り拳を作って息を吹き付け、その頭をポカリとやる

 
 「あんた、いい加減なさい、なん年浪人したか知 ってるの、今年で3年よ、3年! 恥ずかしくて、 姉さん嫁にも行けないじゃないの、たく・・・」
 そう言ってもう一度頭をポカリ       


 『3年とはすごい』僕は感心した。
所沢支店付近、上安松
桜の木の下での家族団らんを眺めて見ていると、家族で花見をする事が、家庭崩壊、家庭内暴力の特効薬となるように思えてくる

当時、坂本龍馬だったか、幕末の時代劇を見ていた 影響もあって、僕は
「浪人」という言葉に 明るい憧れに近いものを感じていた。  志を抱き、真剣に学び、それでいてどこか飄々としている。時に風に鬢をなびかせ、鼻毛でも抜きながら諸国を旅するそんな豪放磊落たる自由人。
 そんなイメージを描いていた。
                

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