シルクロードの旅 4 究極の辛さここに見つけたり 〜火鍋〜 |
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初めて火鍋を食べたのはインドのカルカッタだった。 インドの食事といえば、朝、昼、晩。昨日、今日、明日・・・カレーの毎日。 それじゃ、インドの食い物屋はメニューが少ないか、と、そういう訳でもない。 〇×カレー、△◎カレー、 □▲カレー・・・たくさんある。あるのだが、カレーの種類ばかりが多い。 カレーと書いてないものを選んで注文してみても、基本的にはやっぱりカレーである。 そんな訳で、くる日もくる日もカレー三昧の、いや、地獄の日々。 「このカレー地獄、なんとかならんか・・・」 ネパール大使館でたまたま会った日本人にため息を洩らすと、 「よし、天国に連れて行ってやる」 連れて行かれたのはカルカッタの裏通り、妖しげな中国料理店だった。 そこで食べたのが「火鍋」だった。 鍋の中央に原子力発電のような煙突があり(ちょうど日本のしゃぶしゃぶのような)その中に焼けた炭を入れてスープを煮る。煮えたスープの中に肉を入れる、野菜を入れる、春雨を入れる。 そしてそれらを小皿に取って食う。日本の水炊きのような味に、思わず体が唸った。 「あ・あ・あ・・・・」 カレーに汚染されていた体には、泪が出るほどうまかった。 |
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火鍋というのは、煙突の中に焼けた炭を入れるところからその言葉の由来があるのだろう、その時そう思った。 そして中国、ウルムチにおいて再び火鍋に出会った。 元祖火鍋である。(火鍋は元々遊牧民の食べ物、この元祖火鍋には煙突はなかった。) そこで火鍋を食べ、これまでの「火鍋」という言葉の解釈の誤りに気づいた。 火鍋の「火」は焼けた炭の火によるものではなかった。 |
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写真の後ろでポケットに手を突っ込んでいる親父に、指さしながら注文していったのだが、親父は注文の物を何本かまとめて指の間に挟んで鍋に入れる。入れる際、串のつまむ部分は鍋の外に出しておく。 しばらくその状態で煮た後、串のつまみを持ってブツを右へ左へと鍋の海の中で泳がせる。鍋の中はコールタール色したスープ、いろんなエキスが詰まってうまそうである。 油のぎらぎらが浮いていないところを見るとタイのスープのように、ピリッとした辛さのあっさり味かもしれない。それともあのスパイスの利いたインドの味か? 食べる前に、味についていろいろ想像してみるだけで楽しくなってくる。 |
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充分にそのコールタールの海で泳がせたところで、それを引き上げ串をはずし 「あいよ!」てな具合で、目の前に置かれた皿の上に載せてくれた。 寿司屋と同じで食前に上るまでの過程を、逐一まの当たりにして待つというのは、唾液分泌が活性化され、自然、胃と腸にも活が入る。 まずはコールタールの海の名残を充分滴らせた青菜に箸をのばし、口に入れ、そして噛んだ 。 よく足を踏み外すという言い方があるが、その時私は口を踏み外したと思った。 一瞬にして天と地が逆転してしまったようなあの感覚、と次に味覚信号が脳に達した瞬間、口の中が爆発した。 脳天を割られたような目眩とともに、目の前でいくつもの星が散った。 |
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とっさに吐き出してしまえばよいものを、 「男子たる、いったん口にしたるは出すべからず。」 僕の家の家訓に書いてある。 しからば「水!」と、血走った目が水を求めて泳ぎ回るが、水は注文しないとでてこない。 「ウイグル語で水は何という?・・知らん」 「中国語では、スイか?・・いやシューだったか?」 いや、そもそも声が出ない。 体中からは冷汗が吹き出し、麻痺した口の端からは唾液が糸を引き滴り落ちてきた。 生理は明らかにそれが体内にはいることを全力を挙げて拒んでいた。 私は意を決して、地面に向かって吐き出した。 およそ食事というものの中でこれほど暴力的なものと遭遇したことはかつてなかった。あの涙を流し流し食べたインドのカレーですら、このときばかりは甘く優しい思い出となって我が舌に甦ってくるほどであった。 火鍋の「火」とは食べた直後、口内において引き起こされる事態の比喩的表現。 私はそう確信している。 |
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ブタの鼻、しっぽ、足、内蔵を材料にして巧みに美の世界を作り上げていく。 もしやあなた、華道の心得ある方とお見受けしたが、いかが? |