シルクロードの旅 5

中国のコマーシャル事情
外国へ行ったときの楽しみの一つに、その国のコマーシャルを見ることがある。
これって結構その国を知る手がかりになる。

中国で気になったコマーシャル

  その1.携帯電話

 ブラウン管に映し出された高層ビルの立ち並ぶ大都会。頭上より差し込む陽ざしが、ビル群のガラスの壁面に反射し、金属的な光に溢れかえっている。
 そのビルの谷間を颯爽と歩いて来る一人のビジネスマンをカメラが追う。
 やがて彼は幾つもの電話ボックスの並ぶ一隅にさしかかる。
どの電話ボックスも使用中で、並んで待っている人で列ができている。
 男はそれらにチラッと視線を走らせた後、通り過ごす。そしてニヤリとした笑いを浮かべると、スーツの内ポケットに手を入れ、中から携帯電話を取り出して立ち止まる。立ち止まった男の姿をカメラは下方からとらえる。男の背後には、遠近感の誇張された高層ビルの壁面が空に向かって伸びている。
 男は指で電話番号をプッシュすると耳に当て、そして再び歩き出す。話しながら歩く男の姿が画面枠からスッと流れて消え、その後に、Panasonicのアルファベットの文字が画面に浮き出てくる。

 西安以北の街しか知らないのではあるが、それに限っていえば、今だ街角に電話ボックスなるものを見たことがない、おそらく下の写真が、電話ボックスに当たるものと思われる。
 要するにここでは(西安以西)電話そのものがあまり普及していないのである。(もちろん北京や上海は別であろうと思う)
 Panasonicは日本の代表的なブランドだが、ラジカセにしてもこちらの方でPanasonicが売られているのを目にすることは少ない。
多いのが、サンヨー電気のデザインそのままでSUNNYと書かれてあるやつ。
一見サンヨーの商品に見え、読むとソニーとも読める。
 他にもそのような紛らわし い会社名の商品がやたらと多い。

 コマーシャルとはそもそも、その商品を知らしめ、消費者の購買意欲を促し買わせるために有効な広告媒体だが、その商品が消費される土壌すらできておらず、しかもその商品すら存在しないというこの地において、何故あのようなコマーシャルが流されるのか不思議であった。
とにかく名前だけでも売っておこうとする先行投資のつもりなのか? 

           

 



電話亭とその名称が何とも言えず良い。中には人が入っていて、相手方に繋いでくれる。電話が人と人との会話を繋ぐ仲人としての、まだ血の通っていた時代を思い出させる。    
 その2.北京大珍飯店

 ホータンで流されていたコマーシャルで、北京大珍飯店というレストランのものがあった。
 甘ったるい音楽をバックに、レストランの内部が映し出されているだけのもので、そのレストランの住所までが記されてあった。ちょうど日本の田舎のコマーシャルで静止画像に
「大福洋品店、△〇交差点西へ20メートル」
といった、ああいう絵を動かした感じである。
 さて、それを見ていた若い夫婦がいたとする。二人はソファーに並んで座りくつろいでテレビを見ていたところとしよう。


 妻  ねえ、あなた、ワタクシ北京大珍飯店でお食事がしてみたいの、
    一度連れて行ってくださらない、ねえ。  
 夫  ああ、まあ、ウム・・・。
 妻  ねえお願い、ねえ、ねえってばあ・・・  
 夫  そうね・・そう・・そう・・・・
 妻  ねえ、ねえ、ねええええったらあ!
 夫  分かった、分かった。行く、行く 。今度の結婚記念日に行く。
 妻  ウレシー! 
 
 と、誠にコマーシャルの力大なるものがある。
だが二人は、行かないであろう、いや、行けないのだ。なぜなら、結婚記念日を大珍飯店で祝うには、二人は少なくとも結婚記念日の1週間前に家を出なくては着けないのである。
 仮に飛行機を使ったとしても、北京までの直行便はない、乗り継いだところで北京までの往復飛行運賃は、中国人の平均給料の半年分に当たる。
これではニューヨークの有名レストランのコマーシャルを日本で流すほうがより現実的ですらある。
 おそらくは北京の放送を修正せずにそのまま流しているからこのようなケッタイナ事になるのだろう。だがちょっと穿った見方をすれば、これは、ある意図としてこの国ではあり得ることのようにも思われる。

この国は北京政府を中心に意思統一なされなければならない複雑な事情を抱えている。
 その為、言語も風習も異なる異民族の地にあって、首都「北京」は日本で考えるような首都とはまったく違った響きを持ってくる。それは豊かさの象徴であり、権力の中枢としての権威であり、また、それは中国全土に常に向けられる「眼」といった感触でもある。
 例えば、中国大陸は東西に広大な地域を占める国にも関わらず、ここではあらゆる地域の時計は大陸の中心にではなく、東の、それも端に位置する北京に合わされている。その為、西の外れのホータンでは午前8時といえば闇夜の世界である。
こうした何気ない日常の中にもこの眼「北京」は潜み、そして常にささやきかけてくる。
「近代都市北京」「夢の都北京」「世界の中心北京」
と・・・そしてさらに続き
「神はなくとも北京は在る、北京あってのアンタじゃないか、忘れるな!」と・・・


   

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